5月の掲示板のことばと住職の感想
2025.05.01
5月の掲示板のことば。
この言葉は、浄土真宗の正依(しょうえ)の経典『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』にある「本願文(ほんがんもん)」の第一願を、『真宗児童聖典』より引用しました。法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)はいのちあるもの全てを救いたいと四十八の願い(本願)をおこし、その願いを永遠の時間をかけ、全て成就させて阿弥陀仏(あみだぶつ)となります。その本願の第一番目にたてられた願いです。
本願では、法蔵菩薩が、もし私が仏となったならば、このようにしたい、またはこのようにありたい、と誓っておられます。この第一願では、誰もが阿弥陀仏の国(浄土)に生まれたならば、いのちをきずつけ合い、欲によってうばい合い、だれかに支配されることのないようにしたい、と願われています。
この願いは、私たちに向けられていると受け止めております。願いは教えです。この願いから教えられることがあります。それは、私がいのちをきずつけ合い、欲によってうばい合い、だれかに支配され、そして支配しているという事実です。それが私たちの住む世界です。いえ、それは私が作り出している世界です。
でも本当は、そうではない世界を願っているのではないですか、と問いかけられているのです。いのちをきずつけ合うことなく、欲によってうばい合うこともなく、支配し支配されることのない関係を生きてゆきたいと願っているのではないですか、と。この私の本当の願いが聞こえてくるのです。
悲しいことに、その願いが聞こえてくるのは、願いのように生きていないというこの私の事実に気づいた時なのです。まさに、「恥ずべし、傷むべし」です。
でもその時こそ、本当の願いに生きる世界が開かれる時なのでしょう。