9月の掲示板のことばと、住職の感想です。
2019.09.03
まずは、掲示板のことば。
この耳は ながねん
人の言うことを
おろそかに 聞いた耳です
榎本 栄一
まさに、耳の痛い言葉です・・・。私には・・・。
耳は、仏教では六根の一つと説かれます。眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・身(触覚)・意(意識)の六つですが、これらの人間の持つ感覚はすべて執着にまみれていて、汚れているとされています。だから、修行を重んじる教えでは「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と言って、滝に打たれたりして、六根を清らかにし、執着から離れようとするのです。
浄土真宗では、六根を清らかにしなければならない、とは考えません。なぜなら、「できない」からです。諦(あきら)め、です。でもそれは、「ダメだなあ」という「あきらめ」ではなくて、仏教では「諦観(たいかん)」と言い「諦かに観る」という言葉が元になっていて、「『ほんとう』ということを知る」という意味があります。(あきらかにみる→あきらめる、か?)
私たちの心には、執着があります。これを取り除くことはできません。だから、執着にまみれた耳で聞くしかないのです。自分の都合のいいように聞いてしまい、都合の悪いことは、聞かなかったことにしてしまうのです。まさに、「おろそかに聞いてきた耳」なのでしょう。
でも、その耳が、私の心の執着を知らせてくださる仏縁となります。