親鸞聖人のご生涯
誕生から六角堂参籠(ろっかくどうさんろう)
親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、平安時代の末期、承安(じょうあん)3年(1173)に日野有範(ありのり)の長男として誕生しました。
親鸞聖人が生まれたのは、日本が古代から中世へ転換する時代で、親鸞聖人誕生の十数年前には保元・平治の乱が起こって、日本の政治が貴族を中心とする体制から武士を中心とする体制へと移り変わっていく激動の時代でした。
日野 誕生院
誕生院
9歳の春、親鸞聖人は、伯父の日野範綱(のりつな)にともなわれて、青蓮院(しょうれんいん)の慈円(じえん)のもとで出家得度したと伝えられています。そして僧名を範宴(はんねん)と名のり、修道の第一歩を踏み出しました。
青蓮院
聖人の出家(『親鸞伝絵』東本願寺藏)
親鸞聖人が身をおいた比叡山延暦寺は、大乗菩薩道(だいじょうぼさつどう)の根本道場でした。最澄(さいちょう)はこの学仏道場を開くにあたって、『山家学生式(さんげがくしょうしき)』を著し、その願いを「国宝とは何物ぞ、宝とは道心(どうしん)なり、道心ある人を名づけて国宝となす」と明らかにしています。親鸞聖人は、この向上の志願ともいうべき道心に身を託して20年間、ひたすら「生死(しょうじ)出(い)ずべきみち」を求めて修行する日々を送ったのです。
比叡山根本中堂
しかし、親鸞聖人が学ばれたころの比叡山は、最澄が亡くなってからすでに350年がすぎ、国家や貴族のための祈祷が中心となり、仏教は、現実の生活のなかで苦悩を抱えて生きる人びとには縁遠いものになっていました。修行を完成した者だけが「さとり」にたどり着けるのが仏教であるならば、いったい誰が救われるというのでしょうか。大乗仏教という看板を掲げながらも、実際には、すべての人に平等に開かれた仏教にはなっていなかったのです。この問いを抱えた親鸞聖人は、天台の学場に決別したのです。
山を下りた親鸞聖人は、凡夫(ぼんぶ)の身の救われる真実の教えを求めて、洛中の六角堂(ろっかくどう)に身をはこび、100日にわたる参籠(さんろう)に入ったのでした。親鸞聖人がこの六角堂を参籠の場所として選んだのは、聖徳太子への深い憶(おも)いに促されたからにほかなりません。聖徳太子は、みずから仏教に帰依し、ひたすら仏教の興隆を願った人でした。
六角堂
この六角堂の参籠のなかで親鸞聖人は、太子の言葉を夢告(むこく)として聞き取り、それに促されて吉水(よしみず)の法然上人の門をたたいたのでした。 ときに親鸞聖人29歳でした。
法然上人(ほうねんしょうにん)との出遇(であ)い
吉水を訪れた親鸞聖人が出遇ったのは、「智慧(ちえ)第一の法然房」と呼ばれて、人びとから高い尊敬を受けていたにもかかわらず、自らは常に「愚痴(ぐち)の法然房」と称していた法然房源空(げんくう)でありました。その法然上人から聞くことができたのは、「ただ念仏して、弥陀(みだ)にたすけられまいらすべし」(『歎異抄(たんにしょう)』)と、一筋に念仏に生き「生死出ずべきみち」を語る明快な教えでした。
安養寺(吉水草庵)
親鸞聖人は、この法然上人の説く本願の念仏こそ、わが身自身を本当に知らせてくれる真実の教えであり、たくましく生きる力を与えてくれるものであると直感したのでしょう。その直感に促されて100日間「降るにも照るにも、いかなる大事にも」(『恵信尼消息(えしんにしょうそく)』)ひたむきに法然上人の教えを聞いていきました。
ここに親鸞聖人は、29歳の人生を一転せしめる回心(えしん)を体験したのです。その出遇いの感動を「しかるに愚禿釈(ぐとくしゃく)の鸞(らん)、建仁(けんにん)辛(かのと)の酉(とり)の暦(れき)、雑行(ぞうぎょう)を棄(す)てて本願(ほんがん)に帰(き)す」(『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』)と、記されています。ここに「本願に帰す」と言い切ったことは、法然上人との出遇いが、その人との出会いにとどまらず、法然上人をも生かしている如来(にょらい)の本願との出遇いにほかならなかったことを表明するものでした。
この本願との出遇いによって親鸞聖人は、流転(るてん)の生から解放され、本願に生きる念仏者となったのです。親鸞聖人は後に、この出遇いを感謝して、「曠劫多生(こうごうたしょう)のあいだにも 出離(しゅつり)の強縁(ごうえん)しらざりき 本師(ほんじ)源空いまさずは このたびむなしくすぎなまし」(『高僧和讃(こうそうわさん)』)とうたわれています。
親鸞聖人は法然上人との出遇いにおいて、如来の本願のはたらきを感得し、このような確信をもって、法然上人の吉水教団(よしみずきょうだん)に身をおき、歓びと充実感のなかで、ひたすら念仏の教えを聞いていったのです。
法難(ほうなん)と流罪(るざい)
吉水教団が急速に興隆したことは、南都(なんと)・北嶺(ほくれい)を中心とする伝統仏教を刺激し、やがて国家の秩序を乱すものとして、法然上人の仏教運動への迫害(はくがい)と弾圧(だんあつ)という事態を引き起こすこととなりました。
元久(げんきゅう)元年(1204)、延暦寺の僧たちは念仏の禁止を訴えました。そのため、法然上人は「七ヶ条の制誡(しちかじょうのせいかい)」をつくって、門弟を厳しく誡(いまし)めました。翌2年、南都の奈良・興福寺は法然上人や弟子らの罪をかぞえあげて、処罰するよう朝廷に強く迫りました。
そして、建永(けんえい)元年(1206)の暮れ、御所(ごしょ)の女官たちが、法然上人の門弟が催した念仏集会(しゅうえ)に加わったことが後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の怒りをよび、これが直接の契機となって、ついに翌年、専修念仏停止(せんじゅねんぶつちょうじ)が決定され、法然上人およびその門下の数人が死罪あるいは流罪(るざい)に処せられたのです。これが「承元(じょうげん)の法難」です。この法難で法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後に流罪の身となりました。親鸞聖人35歳の時のことでした。
この法難によって吉水教団は事実上崩壊し、それ以後、親鸞聖人は法然上人と再び会うことはできなかったのです。
親鸞聖人は、「承元の法難」に対して激しい憤りを感じながら、配流(はいる)の地、越後の国府(現上越市)に赴きました。その地で一人の流人(るにん)として生活した5年間は、過酷な日々の連続であったと思われます。背丈を越すほどの雪にも耐え、大地を耕して生命をつなぐという生活のなかで、法然上人よりいただいた「ただ念仏」の教えに生きることは、決して容易なことではなかったと思われます。
上越 居多ケ浜
越後時代と関東時代
親鸞聖人は、承元の法難によって僧の資格を奪われ、「藤井善信(ふじいよしざね)」という俗名(ぞくみょう)を与えられて流罪となりました。しかし国家の名において認否(にんぴ)されるような僧であることを親鸞聖人は放棄して、「すでに僧にあらず、俗にあらず」と言い切り、「愚禿釋親鸞(ぐとくしゃくしんらん)」と名のりました。それは国家によって僧とされたり俗とされるような在り方とは違う、本願に帰することにおいて真の仏弟子(ぶつでし)として生きることのできる確信をあらわしたものであるといえます。
この親鸞聖人の「愚禿(ぐとく)」という名のりは、仏道のいのちに新しくよみがえった自己の発見でもありました。そして「非僧非俗(ひそうひぞく)」の自覚は、すべての人びとを友とし同朋(どうぼう)として、ともに生きる世界を見い出していていくものであったのです。
建暦(けんりゃく)元年(1211)、39歳の親鸞聖人は、法然上人とともに罪を許されました。しかし翌年、師・法然が亡くなられたという悲報がもたらされました。法然上人の「ただ念仏」の教えに励まされて越後での生活を生き抜いてきた親鸞聖人でしたが、もはや師に会うことはできなくなってしまったのです。
稲田の草庵
やがて親鸞聖人は妻子とともに関東の地へと旅立っていき、42歳のとき、その途中の上野(こうずけ)の佐貫(さぬき)のあたりで、飢饉(ききん)のさなかにあった衆生(しゅじょう)の利益(りやく)のために「三部経(さんぶきょう)」を千部読誦(どくじゅ)することをはじめましたが、4、5日ののち思いかえしてそれをやめたと伝えられています。のちに親鸞聖人は、本願の念仏に帰しながらもなお、如来のはたらきにすべてを託しきれない、自力の執心(しゅうしん)の深さにあらためて気づいたと語っています。
その後、親鸞聖人は、上野(群馬県)から武蔵(むさし、東京都・埼玉県と神奈川県の一部)を経て常陸(ひたち、茨城県)に入り、稲田(いなだ)の地に草庵(そうあん)を結びました。それは「ただ念仏」の教えを自ら信じ人びとと共に生きる、「自信教人信(じしんきょうにんしん)」のひたむきな生活でありました。しかし、このような親鸞聖人の歩みは、その土地に古くから根づいていた宗教との軋轢(あつれき)も生みました。そのことは、親鸞聖人の殺害を企てたと伝えられる山伏弁円(べんねん、後の明法房、みょうほうぼう)の物語にみることができます。
板敷山 山伏弁円護摩壇跡
聖人と弁円との出会い(『親鸞伝絵』東本願寺藏)
以後、関東在住の約20年の間、親鸞聖人の教化は常陸(茨城県)を中心に下総(しもふさ、千葉県北部と茨城県の一部)・下野(しもつけ、栃木県)の三国におよび、教えを受けた人は『親鸞聖人門侶交名帳(もんりょきょうみょうちょう)』などに伝えられる70数名を中心に数千人にも達したであろうと考えられています。親鸞聖人はそれらの人びとと、共に念仏に生きる「ともの同朋(どうぼう)」(『御消息集(ごしょうそくしゅう)』)として、ねんごろに交わりながら信心を語りあい、如来(にょらい)の恩徳(おんどく)を讃嘆(さんだん)していったのであります。
小島の草庵
親鸞聖人の足跡(推定)
帰洛そして入滅
関東の稲田を中心に約20年、「自信教人信(じしんきょうにんしん)」のまことを尽くして生きられた親鸞聖人は、60歳を越えたころ、関東の同朋たちをあとに、住み慣れた土地を離れて都に向かって旅立ちました。親鸞聖人に帰洛を促したものが何であったのか、その理由については伝えられていません。いくつかの推測がなされていますが、やはり『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』(『教行信証』)を完成し、世に公開することにあったと思われます。
帰洛後の親鸞聖人の身辺は決して安穩(あんのん)ではありませんでした。その中でも特に親鸞聖人が心を痛めたのは、子息・慈信房善鸞(じしんぼうぜんらん)を義絶(ぎぜつ)しなければならなかったことでした。いわゆる善鸞事件です。
親鸞聖人が帰洛したあと、関東の教団では、造悪無碍(ぞうあくむげ)などの異義(いぎ)が起こり、また鎌倉幕府による念仏弾圧などもあって、同朋たちの間に動揺がみられました。このような状況に対して親鸞聖人は、善鸞を関東に赴かせることによって、異義を諭(さと)させようとしました。ところが善鸞は、逆に異義者の中心となり、混乱をますます激しくしてしまったと伝えられています。
親鸞聖人は多くの書簡(しょかん)を関東に送って問題の解決を図(はか)りましたが、ついに84歳の5月、善鸞に書簡を送り、悲しみのなか親子の縁を絶ったのです。同時に関東の同朋たちにもこのことを知らせました。
聖人の入滅(『親鸞伝絵』東本願寺藏)
この出来事ののち、親鸞聖人は一層深く如来の大悲に生きられ、『和讃(わさん)』『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』等の多くの著作を著していきました。
弘長(こうちょう)2年(1262)、11月下旬のころから親鸞聖人は病に臥し、11月28日、ついに90年の生涯を閉じられました。
しかし、本願念仏に生きられた聖人のいのちは、如来大悲の恩徳を讃嘆した多くの言葉となって、今日なお生き続け、無数の念仏者を生みだし続けています。
善法院跡 親鸞聖人御遷化の石碑
入滅の地(五条西洞院・現在の松原通り)
(文章は真宗大谷派東京教区出版『親鸞聖人に人生を学ぶ』より転記)